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使い分け - 2015.02.11 Wed

一人称については、既に何度か語っていますが、その使い分けについて思うところがあったのでまた書きます。

スネイプ先生の一人称、ずっと「我輩」が使われていきて、最期の瞬間だけ「僕」になり、その後ハリーがペンシーブで見たスネイプ先生の記憶の中の、ダンブルドアの前では「私」が使われていました。
「我輩」についてwebの国語辞典を調べると、大辞林 第三版の解説として「一人称。男性が用いる。①単数。古風で尊大な言い方であり,現在では余り用いられない。われ。わし。余。」と出てきます。尊大な言い方、というのが目を引きます。
ハリーや生徒に対して優位に立とうとする姿勢は原文を読んでも感じるので、そこから「我輩」と虚勢を張ったような訳がされたのも頷ける気がします。
では、ダンブルドアの前での「我輩」はどうでしょう。7巻より前、例えば2巻や3巻などではダンブルドアの前でも「我輩」でした。

「校長、ポッターが真っ正直に話しているとは言えないですな。(中略)我輩としては、彼が告白するまで、グリフィンドール・チームから外すのが適当かと思いますが」(2巻9章p.215)
「どうも――内部の者の手引きなしには、ブラックが本校に入るのは――ほとんど不可能かと。我輩は、しかとご忠告申し上げました」(3巻9章p.216)

二つの場面、共通しているのは、校長に進言しているということです。
こういった場面で「我輩」を使うと、目下の者でありながら、対等くらいの意識で話しているように見えます。そして実際、原文からもそういった気配は感じます。日本語の訳も、きっとそういった無礼な気配を感じ取って一人称が「我輩」となったのだろうと思います。
(余談ですが、探してみると、意外とハリーの前でスネイプ先生がダンブルドアと話している場面が少ないことに気付きました。考えてみれば、ダンブルドアの目が光っているところではスネイプ先生もハリーに対してそうそう理不尽な言動が出来ないでしょうから、そういった場面が目立ったということは、スネイプ先生は、ダンブルドアがいない場面でしゃべることが多かったということですね)

では、7巻の、ハリーがいない状態でダンブルドアと話しているスネイプ先生からは、言葉の中にそのような尊大さ、無礼さを感じさせなかったから「私」と訳されたのでしょうか。
私はそんな気がしています。
ハリーや他の生徒が見ていたからこそ虚勢を張っていたスネイプ先生でしたが、ダンブルドアと二人だけの時は素の自分を出し、感情も素直に表現していました。意見する時も無駄に上から目線ではなかったように思います。大人なスネイプ先生には「私」がふさわしいです。

「私をもう少し早く呼んでくださったら、もっと何かできたものを。もう少し時間を延ばせたのに!」(7巻33章p.441)

ここは、「私」がとても合っていると思います。憤慨してはいますが、年齢相応の態度に見えます。
この言葉の前に「わしは幸運じゃ。セブルス、きみがいてくれて、わしは非常に幸運じゃ」(同)という自分を肯定してくれる言葉があったからかもしれません。
逆に、むしろ「僕」がふさわしかったのではないかと思うような場面もいくつかありました。

「それではダンブルドア、私の魂は?私のは?」(7巻33章p.444)

この場面、私には「僕の魂は?僕のは?」に見えます。ドラコの代わりに自分を殺せと依頼するダンブルドアが、ドラコの魂を守りたい気持ちを表明した時に出た言葉で、スネイプ先生はドラコと同等な少年に見えます。

「あなたはあの子を信用している……私を信用なさらない」「ではなぜ、私には同じ情報をいただけないのですか?」(7巻33章p.446)

ここも、気持ちはハリーと同年で、「あいつを信用して、僕を信用してくれない!」と訴え、「なんで僕には同じ情報をくれないんだ!」と拗ねているように見えて仕方ありません。このセリフの後に続くこの場面の全ての「私」が「僕」に見えます。
こうしてみると、ドラコやハリーなど年下の者がダンブルドアによって庇護されている、自分とは違う待遇を受けている、と感じる時に嫉妬のような感情が出ると私には「僕」に見えるのだと思いました。
あと、7巻ではないけれど、やはり「我輩」には見えない場面があります。

「我輩の証言は何の重みもないということで?」(3巻21章p.511)
「お忘れになってはいますまいな、校長?ブラックはかつて我輩を殺そうとしたことを、忘れてはいますまい?」(3巻21章p.513)

この後、踵を返し、肩を怒らせてドアから出ていっています。ファッジが見ているのにおかまいなしの行動です。
ここ、ハリーは眼中になさそう。「私」か「僕」の方が近い気がします。この瞬間、ブラックと一緒に過ごした時代にいるように見えるので、「僕」がより近いようにも思います。

そして訳されてはいませんが、
「こいつがやったんだ。わかっている。こいつがやったんだ」(3巻22章p.548)
'HE DID IT, I KNOW HE DID IT -'(UKペーパーバック版p.306)

この理性を失った状況の「I」は、「僕」に限りなく近かったのではないかなと思います。
この後、棒立ちになったスネイプ先生はファッジとダンブルドアを睨みつけて、くるりと背を向け、ローブをシュッと翻して去っていきました。客観的には無礼な態度ですが、その心情を察するとよく抑えたと感心します。もし何か言葉を発したら、その時の一人称は「私」がふさわしかったのではいかと思っています。
ちなみに、私には最期の一人称は「僕」ではなく「私」に見えます。

スネイプ先生の一人称、英語では全て同じですが、いくつもある日本語の一人称の中から「我輩」と「私」と「僕」が使い分けられた背景には、スネイプ先生のその時の気持ちを推測する翻訳者の考察があったのだろうと思うと、それがたとえ読者の想いと一致しなかったとしても、とても興味深いです。

● COMMENT ●

拍手コメントくださった方へ

拍手とコメントありがとうございました!

>コンプレックスが強いという側面
私もあると思います。「ハリーや生徒に対して優位に立とうとする姿勢」とか「虚勢を張った」とかは、そんなつもりで書きました。

>7巻33章は全て「僕」に統一しても良いかな
ダンブルドアと二人だけの時の気持ちの捉え方によっては、そうも思えますよね。

良くも悪くも、翻訳書には訳者の考察が入り込みますが、訳者がこの場面のスネイプ先生をどう捉えたのか、と見るのも面白いです。

2/13に拍手コメント下さった方へ

7巻33章にはハリーの目を通して見ていた時とは全然違うスネイプ先生の姿があって、初めて読んだ時は本当に驚きました。
感情を隠す必要のない場所があったことが嬉しい反面、仰るとおりダンブルドアにはもっと気持ちを汲んで欲しかったと私も思います。妬いたり拗ねたり一生懸命なスネイプ先生に対して、その辺のフォローがないのは寂しいです。
しゃべっている時の気持ちを推測して、それが一人称になって表れる、というのは、翻訳の面白いところですね。日本語自体も面白い言語だなと思いました。


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