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2017-05

私のスネイプ先生 - 2012.05.30 Wed

ブログ開設から7年の間に、私の中に出来上がったスネイプ先生の人物像を、その内面に絞ってまとめてみます。

・人付き合いは上手ではないけれど、人間嫌いではない人。
・ハリーやネビルへの接し方、スリザリン贔屓など、未熟な面もあった。
・律義でまじめな人。
・差別意識もあったが、それは刷り込まれたものであって、深い所で人間そのものへの敬意は持っている誠実な人。
・青年時代までは独り善がりな人、愛する人の命が狙われるようになって以降は利他的になる。
・一人の女性を生涯愛し続けたけれど、それだけの人生ではなかった。


騎士団員や教師たちの前で憎まれ役を演じ、親しい交流をしなかったのは、二重スパイという自分の役割に徹するためであって、元来仲間と親しくするのを好まなかった、というわけではないと思っています。
子ども時代や学生時代は、リリーへの態度やスリザリンの仲間を(時にはリリー以上に)大切にしている様子から「人と関わりたい」「人に認められたい」という気持ちが見て取れます。
それは大人になっても変わっておらず、そう見せなかっただけでどちらかと言えば人と関わりたいタイプだったのではないかと考えています。
実際、真実を知るダンブルドアにはひどく甘えた言動が見られました。
また、「あなたのために、私は密偵になり、嘘をつき~」(7巻33章p.451)という言葉から、リリーの息子を守るという明確な目的のために、嘘をつきたくない自分の気持ちを抑えていたのだとわかります。
味方側にも真実を明かさず、裏切り者呼ばわりされてもその役に徹した意思の強さに感服するばかり。なんて自制心の強い人なのでしょう。
しかし、だからこそ、抱える寂しさは大きなものだったでしょう。

ハリーへの接し方、特に入学したばかりでまだ反抗してもいないハリーに対する接し方は、大人の対応ではないと認めざるを得ません。
ハリーを守るという目的のために憎まれ役を買って出ることはするのに、肝心のハリーに対しては必要以上に冷淡。
これは、目的があくまでハリーの「命を守ること」であって「心身を育てること」ではなかったのだと思います。
厳父の役割を果たしたと見る向きもありますが、私は単に自分の感情を抑制できなかっただけと考えています。
ハリーを守るために自分の気持ちを徹底的に抑制した一方で、ジェームズへの憎しみを抑えることはできない未熟さもあったのだと思います。
また、ドラコやハリーと同一線上に自分を置いて「私の魂は?」と聞いたり「あの子を信用している……私を信用なさらない」などと生徒と比較して尋ねる部分など、大人になりきれていないと感じます。
一方では強い自制心を見せ、一方では全く自制しないで解放する感情もあり、アンバランスな印象も受けますが、心の平衡を保つためには仕方なかったのだろうと思っています。

未熟ではあっても、、ダンブルドア殺害など不本意ながらも約束したことはきっちりと守る律義さからは、まじめで誠実な人間性が伺えます。そのまじめさが随分自分の首を絞めたことでしょう。
さらに、人間に対する敬意のようなものは深いところにある人だと確信しています。
何度も語った担架の例を再度繰り返しますが、意識のない敵(または嫌いな人)に対する態度の違いを比較するとよくわかります。
スネイプ先生はシリウスを担架で運んだのに対し、シリウスはスネイプ先生を宙吊りで天井にぶつけながら移動させ、ダンブルドアは偽ムーディを足で蹴り上げました(4巻)。
意識のある時には憎しみを向ける対象であっても、相手に意識がなくて無防備な時にはその体をぞんざいに扱うことはしない誠実な人です。

視野が狭く、好意を寄せるリリーの言葉さえ心に届かない独り善がりな青年でしたが、リリーの命が狙われてからは一転、自己犠牲の精神に目覚め利他的な性質が強まったように思います。
リリーが死んだ時ではなく、丘の上でダンブルドアにリリーを含めポッター一家の安全を確保して欲しいと願い出た時が、スネイプ先生が大きく成長した瞬間だと考えています。
自分を含めて誰も愛していない可能性を考えていたスネイプ先生が、実は一人の女性に対して変わらぬ愛を貫いたと知った時には強く心を動かされました。でも、後半はリリーへの愛だけに生きたわけではないと私は思っています。

リリーを愛するがためにハリーを守っていたスネイプ先生ですが、最終的にハリーが死ななくてはならないと知らされ、抗議しつつもハリーにその事実を伝える役目を請け負い、死に導きました。
もしスネイプ先生が、ヴォルデモートやダンブルドアにリリーの命乞いをした当時そのままに、リリーを愛する自分の気持ちを最優先したのなら、ハリーを死なせる方向に手助けなどしなかったでしょう。リリーが命を懸けて守ったハリーを死なせることなど、スネイプ先生は決してしないと私は見ています。
それでもスネイプ先生が、ハリーに、死ぬべき時に死ぬ運命であるという役目だと伝えたのは、自分の気持ちよりも優先することがあったからだと考えています。
それは何か。
ホグワーツの人々、教職員も生徒も全てを含めたホグワーツの住人です。なぜなら、それがスネイプ先生の家族だったからです。
ハリーもこう言っています。
 ヴォルデモートそしてスネイプと、身寄りのない少年たちにとっては、ここが家だった……。(7巻34章p.466)
ダンブルドアほど広く大きな対象ではないけれど、それでも大事なリリーの忘れ形見を犠牲にしてでも守りたいものが出来ていた、ということだと思っています。

元々教師になりたくてなったわけではなく、ヴォルデモートの命令という形でホグワーツに入り、ヴォルデモートが消えた後もハリーを守るために教師を続けたたスネイプ先生でしたが、十数年の教師生活の中で少しずつ気持ちも変わっていったのではないかと思います。
いつも黒尽くめの服装なのに、2巻のクィディッチの試合でスリザリンのシンボルカラーの緑のローブを着ていたことがありました。この時、リリーへの想いという呪縛から解放されて、純粋に自分の監督する寮生たちと一緒になって寮のチームを応援していたように見えます。
また、リリーのことだけを想い、ハリーを守ることだけに心血を注ぐのであれば、研究室の瓶詰めの標本を増やす必要もなかったでしょう。教科書に従い、魔法史のビンズ先生のように淡々と眠い授業をしていれば良いのですから。
閉心術の個人授業中、女性の叫び声を耳にしたスネイプ先生は授業を中断させました。本当にハリーだけのことしか考えていなければ、出ていかないはず。トイレのパイプに詰まったモンタギューを助けに行った時も同様です。自分の寮の生徒を居残りさせたのだって生徒の将来に本当に必要だと思えばこそ。挙げればキリがありません。
スネイプ先生は、教師として寮監として校長として、ホグワーツを愛し始めていたのだと思います。本人に自覚はなかった可能性はありますが。
家庭に居場所のなかったスネイプ先生は、ホグワーツに居場所を見つけ、何より大切にし、ついに、最優先させたのだと思います。

では、ハリーのことを、“私のスネイプ先生”はどう見ていたか。
残念ながらまだハリー自身を見ている自覚はなかった、というのが私の見解です。
ジェームズとして憎み、リリーとして護っただけで。
でも、ハリーをハリー個人として見ていなかったとしても、ホグワーツの一員として愛し始めていたと思っています。もし、スネイプ先生が生き延びて教師を続けていたら、きっとハリーを一人の人間として見ている自分に気付いただろうと私は思っています。
まだ本人が自覚していないので、私のスネイプ先生はハリーに情が移っていたと言っていいのかどうかわかりません。

スネイプ先生は報われないことも多かったけれど、不幸だったとは思っていません。
ディーンの森でパトローナスを出せたことこそ、その時スネイプ先生が幸福な気持ちになれたことの何よりの証です。
フレッドの死の直後、叫びの屋敷に向かうハリーがパトローナスを出せなかったのは、ハリーに幸福な思い出が無かったからではなく、その時絶望していたからだと思われます。
ディーンの森では輝くパトローナスを作り出すことができたスネイプ先生は、既に絶望の淵から這い上がっていたのです。
幸福な思い出がリリーとのものだったとしても、その時点でのスネイプ先生には幸福な気持ちでいられるだけの余裕があったということです。
以前書いたように、リリーを愛した自分を肯定し、リリーとの一番幸せだった想い出を糧に、前向きに生きていく意欲が湧くようになったからこそ、月のように眩しく輝くパトローナスが出せたのだと思います。
スネイプ先生はその時幸せだったと思って良いのではないかと、心からそう思えます。


ハリーの生と死の狭間の晴れ舞台はキングズクロス駅でした。
スネイプ先生の晴れ舞台はどこだろう?と考えた時、以前はリリーと過ごした川辺を想像しました。
しかし今の私は、スネイプ先生の晴れ舞台は、ホグワーツの大広間の先生方の座る席ではないかと想像しています。
その場所で、他の先生方と並んで生徒を見渡す時が、スネイプ先生の幸せな時だったのではないかと思います。
叫びの屋敷で倒れたスネイプ先生が、ホグワーツの大広間の形をした白い世界で目を覚まし、ダンブルドアとひとしきり話した後、二人連れだって、扉から出て行き、その先でリリーと再会する様子を思い浮かべています。

叫びの屋敷に残された亡骸は、前回書いたようにマクゴナガル先生に慈しみを以って清められた後、ホグワーツの敷地内に運ばれるのです。
ハリーが死んだと思い込んだハグリッドがしたように、限りなく優しい誰かの手でくるむように、できれば揺すってあやすように(cradle)抱えてもらって。魔法を使って運ばれるのではなく、誰かの温かい優しい手で運んで欲しい。
そして、ホグワーツの教職員や生徒達に心から哀悼の意を込めて弔って欲しいです。温かい涙の雨をスネイプ先生の上にも降らせて欲しい。
ダンブルドアがホグワーツに葬られたのは異例のことでしたが、スネイプ先生も二例目となってホグワーツに葬られて欲しいです。
なにしろ、“私のスネイプ先生”は、ホグワーツを愛し、そこで生活する人を家族のように思っていたのですから。

● COMMENT ●

何より

7年間の開心術、ひとまず達成なのですね。本当に楽しませて頂き有り難うございます。私がこちらのブログに出会ったのは3年前ですが、7巻を読んで、どんより沈んだ気分になった私を救ってくださり感謝致しております。
私も今は、スネイプ先生は報われない人ではなかった、という考えに行き着いています。二尋さんと同じく、スネイプ先生がパトローナスを出した場面から、そういう答えに到達したので、根底にあるものを信じることが出来ます。私の場合は「永遠に」のところで、ですが。パトローナスを出す時は幸せな気持ちを思い出しているので、その余韻が残ったままダンブルドアの涙を見たら、ふ…と笑顔になったのではないかと思うからです。(この説はとある所にも別名で書かせて頂いております)そして、泣いてもいるんです。その前のショックで。スネイプ先生、清らかです。ここが物語の最高潮名場面だと、やっと心ふるわされました。主役がついに悪の親玉を倒すところは既にエピローグ部分だと思うぐらいです。
とは言っても私はまだ、二尋さんのようにリリーがそれだけの女性であったと思うことはできません。(頑固だからかな)
スネイプ先生がホグワーツを大切にし、最優先させたのなら、スネイプ先生はますます報われない人返上ですね。ドラコの代わりにダンブルドアを討たなければならなくなった所、ドラコでなくても助けたと思うから、ホグワーツの生徒がこの後、長き後世に渡り、無事学び、巣立っていくことを望んでいると、私も思います。
ホグワーツの平和が続いていることがスネイプ先生にとって何よりなら心から、ホッと致します。

幸せな気持ち

こはちゃんさん、コメントありがとうございます。
おかげさまで、7年かけてなんとか自分のイメージをまとめることが出来ました。
「永遠に」の場面、言われてみればパトローナスを出した時の幸せな気持ちの余韻は残ってますね!
そう思って見ると、ここが物語の最高潮名場面だとおっしゃるこはちゃんさんのお気持ちよくわかります。(とある場、読ませていただきました。音楽もぴったりだと思います)

>リリーがそれだけの女性であった
難しいところですね(笑)私も実のところそれほどリリーの評価が上がったわけではないのですが、あまり評価が低いと、スネイプ先生が見かけだけで人を判断する人みたいになってしまうし。作者がリリーの魅力を描ききれていないのだろうと思おうとする部分もあります。(ジェームズについては、後から書かれたシリウスとバイクに乗っている短編やポッターモアの文章などを見ても依然として評価が上がりません)

ホグワーツを最優先したと見るのは作者の意向とは違うかもしれませんが、私にはそうあって欲しいというより本当にそう見えます。スネイプ先生は最後の一年間は特にハリーだけでなくホグワーツの人々を守る方向に尽力し、犠牲を最小限に留めています。
肖像画となったら迷惑顔をするでしょうが、内心はそれほど嫌がってはいないのではないかと思います。嫌々の素振りでホグワーツの未来をずっと見守っていく姿が想像されます。

いつも新鮮な目線での記事、ありがとうございます。この生と死の間の「晴れ舞台」というのは、(想像に過ぎませんが)その人の魂の中なのではないかな、と思いました。晴れ舞台という考えに合わせれば、最も自分らしい、強い願いの場所なのかなと。そうであってほしいという思いが含まれていますが。

追加ですみません。(話題は違いますが。)やはりそれなりにここを踏み越えたら、自分を自分にさせている何かが消えて、こだわりも時間も無になってしまうのではと思う一線はあると時々、感じます。アンブリッジのように行き過ぎた考えに染まらなかったのは、やはり自制心が強い人でそういったところだけは若いときも守っていたのではないかとふと思いました。

>コルデリアさん

コルデリアさん、続けてのコメントありがとうございます。
最初のコメントに対してですが、私もそう思います。
魂の中なのか心の中なのかわかりませんが、その人の最も自分らしい、強い願いの場所が「晴れ舞台」であって欲しいと。それなら、そこが過去にリリーと過ごした場所ではなく、それを上回る強い思いを抱く場所としてホグワーツであって欲しいとリリー亡き後に過ごした時間がそれだけの重みを持っていて欲しい、という願いからです。

次のコメントなのですが、「ここを踏み越えたら」の「ここ」とは、「一線」のことをおっしゃっているのではないかと思うのですが、前半部部はスネイプ先生に限らず一般的な話、コルデリアさん自身のお話しでしょうか。そして後半がスネイプ先生についてのことで。そうだとしてお返事しますね。
この一線が、スネイプ先生をスネイプ先生にしているものだと私も思います。線の位置がちょっとずれたら、ここまで惚れなかったでしょう。未熟な面もありますが、それでも自制心は強かったと思います。

すみません。この文章だけを見ると、私がとても自制心の強い人だと主張しているようで。ごめんなさい、そういうつもりはなかったです。でも一線を越えてはいけないという感覚はどこかにあると思い、書いてしまいました。

>コルデリアさん

こちらこそ、察しが悪くてごめんなさい。
今年書いた「衝動の制御」にも通じる話なのか、それともこの記事単体に関連したものなのか、ちょっとわからなかったもので、お聞きしました。


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