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2017-06

7巻を読み終わって - 2008.08.01 Fri

6巻読了後、スネイプ先生がどちらの側にあるかは、私にとって大きな関心事の一つでした。殺人を犯したスネイプ先生がとても苦しんでいるように思えたし、どう考えてもずっとハリーを守っているようにしか見えなかったので、ヴォルデモート側で終わるとは思えませんでした。
でも私が7巻に求めたのは、先生がダンブルドア側にあることではありませんでした。物語が完結した時自分を肯定しているか、引き裂かれた魂が安らぎを見つけているか、という点が私にとって重要でした。もちろん、スネイプ先生が生き残ることも。

32章でのヴォルデモートとの会話でだんだん雲行きが怪しくなってきた時、私は読むのを途中でやめました。
原書ではp.527の7行目まで、日本語版でいえば、ちょうど下巻401ページまで読んで、続きを読むのをやめました。この先さえ読まなければ、ずっとスネイプ先生は生きている、と感じたからです。
でも、翌日やっぱり先を読まずにはいられず、恐ろしい悲鳴を聞き、むごい姿を見る羽目になったわけです。あんなに自分の心臓の鼓動を感じ、肩で息をしながら本を読んだ例(ためし)はありませんでした。
そして本を読んで、あれほど心が乱れ、体に影響が出てくるほど思い詰めた経験もなかったです。
スネイプ先生が死んでしまってもうどこにもいない、という悲しみだけに支配された日々がしばらく続きました。33章すら読みたくありませんでした。
元々存在しない人だし、かなり覚悟を決めていたのに、こんなに大きな喪失感に見舞われるとは思いませんでした。スネイプ先生は、本当に私にとって大事な人だったのだと痛感しました。

1週間近く経ってからようやく33章を読みました。
先生がずっとずーっと心の奥に隠していた想いを知って、涙が止まりませんでした。
私の想像していたスネイプ先生とは違う先生がそこにいました。
私は人と関わるのが嫌いな、複雑な思考回路を持った人を想像していました。他人どころか自分すら愛さない人だと思っていました。
実際のスネイプ先生は、ずっと無垢で純真で、正直で、まっすぐで、愛に溢れた人でした。
リリーへの好意を隠しもしなかった少年時代の姿には本当に驚かされました。それが後に、何もかも心の奥底に隠してしまうことになるなんて。

せっかくリリーのためを思って守ってきたハリーが結局死ぬべき時に死ななければならない運命だと聞かされて、それを伝える重荷まで負わされて、どんなに辛く虚しかったことでしょう。使命は全うしたかもしれないけれど、スネイプ先生自身は何も報われることなく逝ってしまったことがたまらなく悲しかったです。
でも、私はスネイプ先生がリリーへの愛だけではないものを見つけていたような気がしてなりません。
年々増えていく研究室の標本は先生が自分の人生を生きた証ではないかという気がします。
また、ダンブルドアのことも、生徒や先生方などホグワーツ全体も、愛していたのではないかと思っています。そうでなければ説明のつかない数々のエピソードがあると思っています。

物語が完結して、謎は全て解けたかもしれません。不可思議だと思った言動にも一貫性があることがわかりました。私の先生への愛と尊敬の念も深まるばかりです。
でも、語ることが無くなってしまったわけではないと思っています。
まだまだ各場面において、スネイプ先生の気持ちを想像する余地が残されていると思います。先生の苦しみも測り知れません。先生が自分を肯定できたのか、引き裂かれた魂は癒されたのか、ということもこれから考えていきたいです。
並大抵の開心術では先生の心の奥底を覗けないことを知った上で、これからも先生の気持ちを探っては語っていこうと思います。

● COMMENT ●

たくさん語ってください

喪失感で一杯で、彼の死を受け入れることが出来ません。

スネイプ先生の「愛」をはじめ、彼について、想像の余地はたくさん残されていると思います。

このサイトがあるということが本当にありがたいです。
二尋さんが語ること、コメントを寄せる方々の意見を拝見し、自分の思いと比べたり、もやもやを整理したり・・・ここでは、ゆっくりと、丁寧に、スネイプ先生の生涯を振り返って(こう書くのも辛いのですが)いけるだろうと、思うからです。

まだ一つに決めない

果穂さん、コメントありがとうございます。
先生の遺した記憶を見てしまったことで、一時はもう語ることはなくなってしまったと思いました。でも原書の描写を書き出しているうちに、例えば4巻での出来事など、結末を知った上で見ても良くわからない部分があるのだと気付きました。
7巻のスネイプ先生だって解釈はいくつもありそうです。
ここは皆さんの意見も聞きながら、私自身の先生に対するイメージを確認していきたいと思いました。
7巻を語ってなお余力があったら、1巻から考えていきたいです。ライフワークになったりして。
これからもよろしくお付き合いください。

祝!開心術七巻解禁♪

こちらも解禁なんですね。
ものすごくうれしく思います。
そしてこのサイトがある限りスネイプ先生は生き続けている気がします。
がんばってくださいね。

スネイプ先生の「死」はショックでしたし33章で真実が明かされてもまだまだスネイプ先生への疑問はいっぱい。語りたいことも沢山あります。

私はスネイプ先生の行動の裏にある深い絶望と愛に引かれていたと再認識した一人です。こんなに辛く切ない思いを閉心術で隠し通す・・・ダンブルドアと同様涙が溢れて止まりませんでした。やっぱりこんなセブルスが愛おしくてたまりません。

七巻を読み終えてから実は「スネイプ」という呼び名に少し抵抗が出てきました。私の中ではセブルスが心にしっくりくるので、「セブルス」と呼ぶときも多々あるのかもしれません。

深くも強い永遠の愛を残してくれたスネイプ先生に感謝。

ありがとうございます!

ゆうゆうさん、こちらにもコメントありがとうございます!
解禁を喜んでくださって嬉しいです。
ゆうゆうさんもおっしゃるとおり、語り続けている限り、先生は生きているような気がしています。まだまだ語り続けますよ!応援ありがとうございます。
そうですね、7巻で真実が明かされる前から、スネイプ先生には人を惹きつけるものがあると思っていました。深い絶望と愛を感じさせるものがあったのでしょうね。

私は「スネイプ」に抵抗はないものの、「セブルス」の地位がぐっと上りました。私も今まで以上にセブルスと呼ぶ場面があると思います。

分からない自分の気持

ずっと考えていました。

喪失感を訴えられる人がたくさんいる中、確かに悲しいのであるがそこまで感じていない気がして、

あそこまで描写されても、まだ、私の中で生きているんです。だから、英文で読んだ後も・・・今でさえ・・・

色々語っているのに、
私はもしかしたらその事実をまだ、ちゃんと受け入れていないのかもしれません。

妄想の中では生き続けているのです
果たして私は受け入れることが出来るのでしょうか、そのことを。

それぞれ

スネイプ先生に限らず、物語の中の人って、読む人それぞれの存在の仕方があるのかな、と思っています。愛の深さに関係なく。
私は自分で思っていた以上に現実に近いところにいたような気がします。想像というより、本当の意味での妄想、ある意味ちょっと病的だったかもしれません。死んでしまったことに動揺してしまい、どう生きたか、ということは二の次でした。私にとってはとにかくスネイプ先生が生きていることが重要でした。
その後の自分の心の変化を思い起こすと、ちょうど受容の過程をたどったようにも思えます。否認とか、悲しみと怒りとか。作者やダンブルドアやリリーに怒りをぶつけてみたりもしました。

hajime:mamaさんが私と同じように捉えた上で先生の死を受け入れていないのか、私と違う存在の仕方だったのか、それはわかりませんが。
少なくとも、私は以前とは違う感覚を持ってしまいました。それがスネイプ先生の死を受け入れてしまったことではないかと感じています。それはすごく寂しいことです。私の中で大きな存在であることには変わりないのに、先生の死ありきで物事を考えてしまっているのですから。
私の中のスネイプ先生の時間は止まってしまいました(号泣)

7巻を読み終わってから毎日
セブルス・スネイプについて考えています。
最後の「僕」という表現に
かなり心を動かされました。
そしてスネイプ教授の生き方は、
愛することの美しさを教えてくれました。

ゆうゆう #9L.cY0cgさんと同じく、
「セブルス」と呼ぶようになりました。

私はスネイプ教授の死より、
どう生きたか。のほうを考えていました。

スネイプ教授の存在は、
私に色々教えてくれたと思います。


与えた影響

永遠さん、こちらにもコメントありがとうございます。

私は、とにかくスネイプ先生の死がショックでした。先生の死を知ってから8が月経った今、ようやく先生がどう生きたか、を考えられるようになってた気がします。
それがつまり、先生の死を受け入れてしまったことなのだろうか、という気もするのですが。

スネイプ先生の生き方は、人に様々な影響を与えたと思います。
そんなことをこれから探っていきたいです。

良かったら、またいらしてくださいね。

愛の人

日本語版で読んでいました。不死鳥の騎士団から、先を読むのが怖くなって、ここ数年はずっと、読んでいなかったのですが、このたび、意を決して6,7巻を読みました。
……7巻32章、読んで。震える手で、33章をめくり…、声を殺して泣きました。

スネイプ先生のこと、ずっとずっと、想ってきていて、私の考えていたよりずっと、純粋で深い、愛おしい姿を知って…そこで、私は読むのを止めました。2日後に最後まで読んで、また、33章を読んで泣きました。


まだ、私は、苦しくて…。
ネットを散策し、親世代の若い頃の創作話を読んだり、しながら、セブルスのことを想っています。

自分だけでは気持ちに決着がつけれなかったので、こうして、ネットの世界に来ました。ここに出会えてよかった。二尋さんの考察、じっくりと味わいながら、セブルスのことを想おうと思います。
それではまた…失礼します。

苦しい時

白い蝙蝠さん、はじめまして。
読み終わってすぐでは、さぞかし辛く悲しい思いをされていることと思います。
たとえスネイプ先生の誤解が解けても、愛に満ちた素晴らしい人だとわかっても、スネイプ先生がもういない、という悲しみは変わらないですよね。
私も、この悲しみをどうしていいかわからず、ネット上を彷徨ってみたり、自分の世界にこもったり、色々してみました。私にとって一番効果があったのは、自分の想いを文章にすることだった気がします。
白い蝙蝠さんも、しばらく苦しいと思います。このブログが少しでも癒しのお手伝いをできたら良いのですが…
どうぞ、また思いの丈をぶちまけていってください。

ある夜、ふと…

こんにちは。
12月にコメントを書かせていただいた、みのんです。
コメントを書かせていただいた頃が一番悲しさのピークで、でも、ある夜、布団の中で考えていて(妄想?)、そう、あの戦いの後の事なんですが…。

多分、喜びやら悲しみやらでゴチャゴチャになっている学校を、ハリーは数人の先生と出て、スネイプ先生の身体を迎えに行ったと思うのです。その間の会話は私の妄想なんでおいときますが(汗)、そんなゴチャゴチャの期間を過ぎたら、ハリーも大切な人をたくさん亡くしたから、喪失感やら何やらが襲ってきたと思うのです。いろいろ後悔がダ~ッと襲ってくると思うのです。
ある夏の日、マクゴナガル先生(その頃は校長かな?)に学校まで呼ばれたハリーは、先生と語り合って、その校長室で多分スネイプ先生(の肖像画)を、見つけたと思うのです。
その時に、初めていろいろ話せたのじゃないかな、ハリーは結構素直なところもあるし、己の間違いを間違いと認める度量はあるだろう、と思うので、「先生は臆病者じゃなかった、許してください」て言ったかもかも…、そして堰を切ったように思いのたけをぶちまけたんじゃないかな…と思うわけです。

そこの所は私の妄想ですが、スネイプ先生に会って話す機会はあったと思います。最後の章で、ハリーのスネイプ先生に対する尊敬の念や、和解(?)や愛情(?)を感じたので…。
ただ、スネイプ先生がどう話したのか、いろいろ模索中です。先生は表面的には素直じゃないし(そこがとても可愛い)。心の中を見られてしまったから、ちょっと恥ずかしいかもしれないし(だからよけいにスネイプっぽい態度になるかもしれないし)。

…でも、そうだ、校長室に行ったらスネイプ先生は存在するんだ、と思うと、悲しさがちょっと薄れて、元気になってきました。
私に(昔の若さの)パワーがあったら、同人誌に描くのに~とか思いつつ、またハリーポッター第1巻を手に取るのでした。

その後

みのんさん、コメントありがとうございます。
妄想(?)をお書き下さり、ありがとうございます(笑)

スネイプ先生を迎えに行ったのは誰だろうと私もよく考えました。
結局、誰というでもなく、でも必ず誰かはスネイプ先生を思い出して連れてきて欲しいと、切に願っています。いくらなんでも、あのままでは悲しすぎますよね。
ただ、肖像画については、私はまだ希望が持てていないのです。
作者の「校長を辞職したから肖像画はなかった」という言葉がひっかかって。
でも、これも36章の話で、その後ハリーが奔走すると考えているようですから、いずれは現れるかもしれません。
スネイプ先生はきっと肖像画の仲間入りを望まないとは思いますが、何かの決まり、あるいは誰かの意思でスネイプ先生の肖像画が無いのは、我慢なりません。それが何であってもスネイプ先生を正式な校長と認めないような行為は許せません!
が、ハリーとスネイプ先生の対面は、なかなか想像しにくいです(笑)
ハリーは大人になって歩み寄りの姿勢を見せるかもしれませんが、亡くなった時のままのスネイプ先生はちょっと子どもっぽいままでしょうか。いつか逆転しそうですね。それはそれで悲しいけれど、そんなスネイプ先生が愛しいです。

おかげで、ほんの少し、私も妄想できました。
素敵なお話、ありがとうございました。

一人称について

二尋さん。こんばんは♪
1巻からの 読み返しも、やっと 7巻の冒頭まで きました。

スネイプ先生の 一人称については、賛否両論 いろいろあるのは 承知しています。
私は、『 我輩 』の 呼称に 疑問を持たなかったので、『 Look…at…me…』が『 僕 』と 訳された時点で
「リリーを愛した セブルス青年」の 言葉だと 思っていました。

でも、閉心術の個人授業で さんざん ハリーの瞳を ぐりぐり見つめてきた先生が、今更 ハリーの瞳を リリーの瞳に 感じるだろうか…とか、
逆に、ジェイムズそっくりの外観を持つハリーの中に、リリーの瞳を感じていたからこそ 呟いてしまった言葉なのか、疑問は 解決していません。
やはり、『 開心術 』を 使わないと 先生の心の中は、判らないのでしょうか…?

まだまだ 私にとって、スネイプ先生の事は、謎が多くて 終わりが 見えない感じです。
もっと もっと スネイプ先生を 見つめて行きたいと 思います(^^)

解釈できる余地


ノーベルタさん、コメントありがとうございます!
読み返し、結構エネルギーを使うので、私はついついスネイプ先生の場面ばかり拾い読みしてしまいます。通して1巻から7巻まで読んでいらっしゃることに頭が下がります。

スネイプ先生の最期の言葉は、先に原書で読んでいたので一人称がどう訳されるかとても気になっていました。ファンの間でもいろいろ議論されていたし。
日本語を見た時は衝撃でした。その瞬間、彼の心は青年(あるいは子ども)時代になっていた、という解釈をはっきり提示した、という点で。つまり最期の瞬間、「リリーを愛したセブルス青年」に“戻っていた”、ところに驚きました。

それも解釈の一つだと私は思っていますが(中にはその解釈すらあり得ないという考え方もあります)、そうするとスネイプ先生の時間がその時(青年時代?少年時代?)から止まっている=教師時代のあらゆる成長がなかったことになる、と見えるので私は残念です。
私としては、「ずっとリリーを愛して続けているスネイプ『先生』」が望ましいのですが、それは個人的な意見だし、少なくとも色々解釈できる余地のある言葉だったら良かったな、というのが今も変わらない感想です。

> でも、閉心術の個人授業で さんざん ハリーの瞳を ぐりぐり見つめてきた先生が、今更 ハリーの瞳を リリーの瞳に 感じるだろうか…とか、
これは翻訳以前の問題ですね!一人称が何であれ、ハリーの瞳にリリーの瞳を重ねていた、というのが大前提だと思ってました。

> 逆に、ジェイムズそっくりの外観を持つハリーの中に、リリーの瞳を感じていたからこそ 呟いてしまった言葉なのか、
私はこちらで解釈しています。

スネイプ先生は常にハリーの中のリリーを意識していたわけではないと私は考えています。
ほとんどの場合がジェームズとして見ていて、時々ハリーの意思の強い視線などにリリーを見ていたのではないかと思います。
授業場面などでハリーが強い意思を以って見返した時、スネイプ先生が視線をそらすことが何度かありましたが、そういう時にリリーを見ていたのではないかと。

と、ここまで書いてある考えが浮かび、一度は書きかけたのですが、やっぱり記事にして多くの人に読んで欲しくなってしまいました。
今日と明日は書く時間がないのですが、なるべく早く書きたいと思っています。
中途半端なお返事で申し訳ありませんi-201
でも、なんだか久し振りに『開心術』を使う気分でうきうきしています。
インスピレーションを与えて下さって、ありがとうございました!

『先生』として…

お返事 ありがとうございます。
私は『僕』という日本語訳から「リリーを愛したセブルス青年(少年)」に戻ったと感じましたが、それによって スネイプ先生の『先生』としての成長が 否定されるようには 感じませんでした。
二尋さんが blogに書かれていたように、スネイプ先生は『先生』として 生徒達を教える事に 真剣に向き合い、ホグワーツに 自分の居場所を見つけたと 思います。
だから「リリーの息子のハリー」だけでなく、ホグワーツの生徒達を 全力で守る と ダンブルドアと約束したのだと思います。
なので スネイプ先生の時間が その時(青年時代?)から止まっているのでなく、「ずっとリリーを愛し続けているスネイプ『先生』」が 最後の瞬間だけ「僕」に戻っていったのかな、と 感じました。私の中では、「僕」の訳と スネイプ先生の『先生』らしさは 両立しています。
あぁ 自分の日本語の表現力の拙さに 愕然とします(TT)

ヴォルデモード復活後は、常に危険な状態に身を置いていたスネイプ先生…心身の休まる時がなかったでしょうが、最後は リリーの瞳に見つめられて 安らぎを感じたと 信じたいです。

あちこちに 長々と 書いてしまいました。
それも 伝わりにくい文章で すみません
m(__)m

感覚的なもの?

ノーベルタさん、再度コメントありがとうございます!
あちこちに書いて下さること、とても嬉しいです。

「僕」とすることで『先生』を感じないのは単に私の感覚の問題なのではないかという気がします。
私も自分のこの感覚を上手く言葉に表すことができず、歯痒い思いをしています。
以前ブログにその気持ちを書いたことがあったので、ご紹介しておきますね。
http://futahiro.blog18.fc2.com/blog-entry-2356.html

ここに書いた本を読んだ時のショックは、私の中ではとても大きかったです。お母さんが最期に夫の名でもなく子どもの名でもなく、かつての恋人の名を呼んだことで、そのお母さんは実はずっと娘時代の想いを引きずり家族のことを見ていなかったのではなかったのかと私は感じました。実際はそんな単純なものであるはずがないと頭では思いますが、私はそう感じてしまうのです。特に物語を読んでいる時にこう感じる傾向があります。
スネイプ先生の場合も、最期に「僕」が出てくると、先生の中では少年時代で時間が止まってたの?と思ってしまいます。

まだ「僕」と訳される前から、スネイプ先生が最期の瞬間どの時代にいたのか?ということを友人と話し合ったりしていました。
その頃の記事を見つけたのでご紹介しておきます。
http://legilimens.blog68.fc2.com/blog-entry-342.html
最後の一文が我ながら面白いです(笑)
この頃も「最期の瞬間が少年時代だとスネイプ先生の時間が止まってしまっている」という感覚がありましたが、『先生』であることへの思い入れが今ほどではなかったので、それもOKでした。
私もだいぶ変わっていったものだと思います。


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スネイプ先生への愛を語らずにはいられません。         

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