2008年08月12日 (火) 23:58 | 編集
7巻のスネイプ先生の細部を語る前に、日本語訳に感じたことをもう一つ書いておきます。
日本語版を読むにあたって、注目していた部分があります。
それは、スネイプ先生の一人称です。
スネイプ先生が、ヴォルデモートの前でも、いつもの尊大な「我輩」口調で話すのかどうか気になっていました。
また、少年時代だって「我輩」のはずがありません。やっぱり「僕」だろうか、と想像していました。
そして、やはり、我輩ではありませんでした!
1章の死喰い人たちの会合で報告する際、ヤックスリーには、「我輩」と言っているものの、ヴォルデモートには、一人称単数は使っていませんでした。複数では「我々」と言っています。
そして後に、32章で何度も使ったのが「私め」でした。
「め」は「奴」ですね。自分または自分の側のものの名に添えて謙遜の意を表す。(広辞苑)
全てにおいて英語での一人称は、「I」ですが、日本語では、話す相手によって即座に使い分ける形を取ったのだ、と思いました。
何より驚いたのは、32章のヴォルデモートとの会話で、スネイプ先生が一度「我輩」と言いかけて「私め」と訂正する場面です。
「我輩―私めには、わが君、説明できません」(7巻32章p.401)
ここは、私は原文で読んで、スネイプ先生の激しい動揺を感じました。
全くいつもの口調と違うと感じ、居ても立ってもいられなくなりました。
きっと翻訳者もそう感じ、それを形にしたのだと思います。
「わ、私めには、」とせず、相手によって変えていた一人称を間違えることで、混乱した様子をより強調したかったのだろうか、と思いました。
ちなみにUK版オーディオブックでは、この場面のスネイプ先生は私が思っていたよりも冷静に聞こえました。
‘I -I have no explanation,my Lord’(p.526)
ちょっと言葉を捜す程度、強いて言えば「えーと」程度。
朗読者は、あくまで冷静でハリーへの伝達方法に思いを巡らす、ちょっとうわの空のスネイプ先生を表したかったのだろうか、と思いました。
同じ作品でも、間に入る人(翻訳者・朗読者・役者)によって伝え方も様々だということだと思います。
スネイプ先生の一人称、ダンブルドアの前では「私」でした。
以前「我輩」と言ったことがありましたが・・・
私の方がずっと好感が持てました。ずっと自然な感じでした。
少年時代から学生時代は「僕」でした。
そうだろうと思いました。「俺」という感じはしませんでした。
「僕」と言うセブルスは、より無邪気な感じがして切なかったです。
そして、スネイプ先生の最期の言葉には「僕」が使われました。
これは一つの正解を示した、という点で、衝撃でした。
原文では‘Look...at...me...’(p.528)で、先生が誰に向かってこの言葉を言ったかはっきりせず、議論の余地がありました。リリーの目と同じ緑の目で見て欲しかったにしても、やっぱりハリーに向かって言った可能性も否定できないので、この言葉には訳者の解釈が入っていると思います。そもそもスネイプ先生が相手によって一人称を使い分ける、というのも日本語ならでは表現で、大いにフィルターがかかっていると考えられます。
ただ、私自身は、スネイプ先生はリリーに見て欲しかったと考えていますし、最期の瞬間、先生は今の時代にいないように感じていたので、「僕を……見て……くれ……」(7巻32章p.404)はとても心に染みました。そして、色々なサイトを見て回って、この部分に大きく心を動かされた方が多いことも知りました。
訳者の想いの詰まった翻訳が読者の心を捉えたのだと思います。
内容を正確に日本語に置き換え、原書を読んだ時と同じような議論ができる翻訳もあれば、読む人の心を捉えられる訳者の想いの詰まった翻訳もあるのだと、今回強く感じました。
スネイプ先生のことは、より正確に知りたいので、今までより原書の出番が増えるかもしれませんが、原書から受けた印象や日本語訳や朗読などから感じたことなどを織り交ぜてスネイプ先生のことを考えていきたいと思っています。
ひとつの場面から感じるものは人によって違うと思います。
ぜひ、一緒に考えていってください。
日本語版を読むにあたって、注目していた部分があります。
それは、スネイプ先生の一人称です。
スネイプ先生が、ヴォルデモートの前でも、いつもの尊大な「我輩」口調で話すのかどうか気になっていました。
また、少年時代だって「我輩」のはずがありません。やっぱり「僕」だろうか、と想像していました。
そして、やはり、我輩ではありませんでした!
1章の死喰い人たちの会合で報告する際、ヤックスリーには、「我輩」と言っているものの、ヴォルデモートには、一人称単数は使っていませんでした。複数では「我々」と言っています。
そして後に、32章で何度も使ったのが「私め」でした。
「め」は「奴」ですね。自分または自分の側のものの名に添えて謙遜の意を表す。(広辞苑)
全てにおいて英語での一人称は、「I」ですが、日本語では、話す相手によって即座に使い分ける形を取ったのだ、と思いました。
何より驚いたのは、32章のヴォルデモートとの会話で、スネイプ先生が一度「我輩」と言いかけて「私め」と訂正する場面です。
「我輩―私めには、わが君、説明できません」(7巻32章p.401)
ここは、私は原文で読んで、スネイプ先生の激しい動揺を感じました。
全くいつもの口調と違うと感じ、居ても立ってもいられなくなりました。
きっと翻訳者もそう感じ、それを形にしたのだと思います。
「わ、私めには、」とせず、相手によって変えていた一人称を間違えることで、混乱した様子をより強調したかったのだろうか、と思いました。
ちなみにUK版オーディオブックでは、この場面のスネイプ先生は私が思っていたよりも冷静に聞こえました。
‘I -I have no explanation,my Lord’(p.526)
ちょっと言葉を捜す程度、強いて言えば「えーと」程度。
朗読者は、あくまで冷静でハリーへの伝達方法に思いを巡らす、ちょっとうわの空のスネイプ先生を表したかったのだろうか、と思いました。
同じ作品でも、間に入る人(翻訳者・朗読者・役者)によって伝え方も様々だということだと思います。
スネイプ先生の一人称、ダンブルドアの前では「私」でした。
以前「我輩」と言ったことがありましたが・・・
私の方がずっと好感が持てました。ずっと自然な感じでした。
少年時代から学生時代は「僕」でした。
そうだろうと思いました。「俺」という感じはしませんでした。
「僕」と言うセブルスは、より無邪気な感じがして切なかったです。
そして、スネイプ先生の最期の言葉には「僕」が使われました。
これは一つの正解を示した、という点で、衝撃でした。
原文では‘Look...at...me...’(p.528)で、先生が誰に向かってこの言葉を言ったかはっきりせず、議論の余地がありました。リリーの目と同じ緑の目で見て欲しかったにしても、やっぱりハリーに向かって言った可能性も否定できないので、この言葉には訳者の解釈が入っていると思います。そもそもスネイプ先生が相手によって一人称を使い分ける、というのも日本語ならでは表現で、大いにフィルターがかかっていると考えられます。
ただ、私自身は、スネイプ先生はリリーに見て欲しかったと考えていますし、最期の瞬間、先生は今の時代にいないように感じていたので、「僕を……見て……くれ……」(7巻32章p.404)はとても心に染みました。そして、色々なサイトを見て回って、この部分に大きく心を動かされた方が多いことも知りました。
訳者の想いの詰まった翻訳が読者の心を捉えたのだと思います。
内容を正確に日本語に置き換え、原書を読んだ時と同じような議論ができる翻訳もあれば、読む人の心を捉えられる訳者の想いの詰まった翻訳もあるのだと、今回強く感じました。
スネイプ先生のことは、より正確に知りたいので、今までより原書の出番が増えるかもしれませんが、原書から受けた印象や日本語訳や朗読などから感じたことなどを織り交ぜてスネイプ先生のことを考えていきたいと思っています。
ひとつの場面から感じるものは人によって違うと思います。
ぜひ、一緒に考えていってください。

